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日本の名作を読む / 感想文

『手袋を買いに』を読み返して──雪の夜に残る問い

新美南吉『手袋を買いに』を、帽子屋、窓の下の声、母狐の問いから読み返す、Kazuの感想文です。

こんにちは。Kazuです。

新美南吉『手袋を買いに』を、やさしい日本語に書き直しました。

原作を何度も読み返しているうちに、子供のころには読み過ごしていた場面にも、新しい意味が見えてくるようになりました。

雪の光。
戸のすきまから出された小さな手。
窓の下から聞こえてくる母の声。
そして、物語の最後に残される、母狐の小さなつぶやき。

『手袋を買いに』は、やさしい物語です。
けれど、やさしいだけの物語ではありません。

この物語には、人間に追われた母狐の記憶と、「人間って、ちっともこわくないや」と言って帰ってくる子狐の発見が、どちらも消されずに残っています。

今回は、私が特に心に残った三つの場面について書いてみます。

これは、正解を示すための記事ではありません。
一人の読み手として、私がこの物語から受け取ったものです。
読みながら、あなた自身の感じ方と比べてみてもらえたら嬉しいです。

子狐は、本当の手を出しました

「人間の手を出すんだよ」

母狐は、子狐に何度もそう言いました。

子狐の片方の手だけが、母狐の力で人間の手に変えられています。
町へ行ったら、その手を出して、手袋を買います。
本当の手、つまり狐の手を出してはいけません。

子狐も、返事をしました。
「ふうん」と答え、母狐の言葉を聞いていました。

けれど、帽子屋の戸が開いたとき、子狐は狐の手を出してしまいます。

それは、人間の手ではありません。
狐の手です。
母狐が、出してはいけないと言った手です。

戸のすきまの向こうで、帽子屋はその手を見ます。
帽子屋は、それが狐の手だと気づきます。

そのとき、帽子屋はこう言います。

「先に、お金をください」

一つめ:帽子屋という人について

帽子屋は、何を言わなかったのでしょうか。

「狐め、出ていけ」とは言いませんでした。
「かわいそうだから、ただであげよう」とも言いませんでした。

帽子屋が言ったのは、一言だけでした。

「先に、お金をください」

子狐は、母狐からもらった二つのお金を渡します。

帽子屋はそのお金を指の先にのせ、カチンと打ち合わせます。
チンチンと、よい音がします。

葉っぱではありませんでした。
本当のお金でした。

日本には、狐が人を化かし、葉っぱをお金に見せるという言い伝えがあります。
帽子屋も、それを知っていたのでしょう。
だから、子狐の手を見た瞬間、化かされているのではないかと疑ったのだと思います。

けれど、お金が本物だとわかると、帽子屋は棚から子供用の手袋を出し、子狐に渡します。

ここで帽子屋は、子狐を特別扱いしませんでした。

優しさを見せて、手袋をめぐんだのではありません。
かわいそうだから、助けてあげたのでもありません。

お金を払う客には、商品を渡します。
その当たり前の決まりを、相手が狐であっても変えませんでした。

これは、人間の愛情に救われる場面ではありません。
けれど、狐だからという理由で追い返される場面でもありません。

帽子屋は、子狐を「かわいそうな狐」として見ませんでした。
「追い払うべき狐」としても見ませんでした。

お金を持ってきた一人の客として扱いました。

優しさではありません。
ひどさでもありません。

心を開いたわけではありません。
戸を閉めたわけでもありません。

帽子屋のこの距離の取り方に、私は心が惹かれます。

帽子屋は、子狐の事情をたずねません。
どこから来たのか、どれほど寒かったのかも聞きません。
お金を確かめ、手袋を渡します。

その距離は、少し冷たくも見えます。
けれど、その距離の中に、子狐が入れる場所がありました。

狐だから追い払うのではありません。
お金が本物なら、手袋を渡します。

帽子屋がしたことは、特別なやさしさではなかったかもしれません。
それでも、その当たり前のおかげで、子狐の手は守られました。

その少し開いた戸のすきまから、子狐は人間の世界に触れました。

間違いによって開かれたもの

子狐は、まちがえました。

何度も教えられていたのに、戸が開いたときの光に驚いて、狐の手を出してしまいました。

もし子狐が、教えられたとおりに人間の手を出していたら、どうなっていたでしょうか。

帽子屋は、何も気づかなかったかもしれません。
子狐は人間の客として手袋を買い、そのまま森へ帰ったかもしれません。

そして、母狐の言葉は、そのまま子狐の中に残ったでしょう。

人間は怖いものです。
狐だと知られたら、ひどい目にあいます。
だから、本当の姿を見せてはいけません。

子狐が正しくふるまっていたら、その教えは壊れませんでした。

けれど、子狐はまちがえました。
本当の手を出してしまいました。

そのまちがいが、子狐に人間を見せました。

多くの物語では、子供のまちがいは罰につながります。
失敗し、痛い目を見て、反省して、成長します。
その形は、とてもわかりやすいものです。

けれど、『手袋を買いに』はそうなりません。

この物語は、子狐を叱りません。
泣かせません。
反省の言葉も与えません。

狐の手を出してしまった子狐の前に、思っていたものとは少し違う人間が現れます。

子狐の失敗は、失敗のままです。
狐の手を出したことが、正しい行動だったわけではありません。

それでも、その狐の手によって、子狐は見えるはずのなかったものを見ます。

戸のすきまがあります。
まぶしい光があります。
狐の手を見ている帽子屋がいます。
カチンと鳴る二つのお金があります。

母狐の言葉とは少し違う人間が、そこにいました。

私は、この静けさがとても好きです。

失敗は、いつも罰だけを連れてくるわけではありません。
ときどき、人間の見え方を少し変えてしまうことがあります。

『手袋を買いに』は、それを大きな言葉では説明しません。

子狐の小さな狐の手が、戸のすきまから差し出されます。

それだけです。

二つめ:窓の下の声について

手袋を買ったあと、子狐はすぐには森へ帰りません。

人間というものを、少し見てみたいと思ったからです。

ある家の窓の下を通ると、声が聞こえてきます。
やさしくて、きれいで、ゆっくりした声です。

人間の母の声です。

「ねむれ、ねむれ。母のむねに。ねむれ、ねむれ。母の手に。」

子狐は立ち止まります。

雪の道にじっと立ったまま、その歌声を聞いています。

子狐は、その声を聞いて、人間のお母さんの声だと思います。
自分が眠るときにも、母狐は同じようにやさしい声で包んでくれるからです。

そのあと、人間の子供の声が聞こえます。

「母ちゃん、こんな寒い夜は、森の子ぎつねは、寒い、寒いって鳴いているでしょうね。」

人間の子供は、見たこともない森の子狐のことを思っています。

寒い、寒いと鳴いているのではないか。
そんなふうに案じています。

そして、その同じ窓の下に、本物の森の子狐が立っています。

窓の中の子供は、子狐の姿を見ていません。
子狐も、窓の中の子供の顔を見ていません。

それでも、子供は森の子狐を思い、森の子狐はその声を聞いています。

人間の母は、こう答えます。

「森の子ぎつねも、お母さんぎつねの歌を聞いて、あなの中でねようとしているでしょうね。さあ、坊やも早くねんねしなさい。森の子ぎつねと坊やと、どちらが早くねんねするでしょう。きっと、坊やのほうが早くねんねしますよ。」

人間の母は、自分の子供と、見たこともない森の子狐を、同じ夜の中に置きました。

同じ寒さの中に置きました。
同じ眠りのそばに置きました。

子狐は、この家族に見つかったわけではありません。
話しかけられたわけでもありません。
助けてもらったわけでもありません。

それでも、子狐はその声を受け取ってしまいます。

人間の家の中で、子狐のような小さな狐のことを、誰かが思っています。
見えないまま、知らないまま、寒くないかと考えています。

帽子屋の場面とは、まったく違います。

帽子屋は、決まりの中で子狐を扱いました。
お金が本物なら、手袋を渡します。
それは、距離のある受け入れ方でした。

窓の中の母子は、子狐と取引していません。
子狐がそこにいることすら知りません。

私はこの場面を読むたびに、少し立ち止まってしまいます。

目の前にいない相手の寒さを思うこと。
会ったことのない誰かの眠りを案じること。

それは、誰かに頼まれてするのではありません。
窓の中の母子の言葉から、自然にこぼれ出ています。

その思いは、雪の道に立っている子狐のところまで届きます。

窓の中の母子は、子狐を見ていません。
子狐も、二人の顔を見ていません。

それでも、その夜だけは、同じ寒さの中にいました。
同じ眠りの近くにいました。

三つめ:母狐のつぶやきについて

子狐を町へ送り出した母狐は、帰りをずっと待っていました。

子狐が帰ってくると、母狐は胸にぎゅっと抱きしめます。
泣きたいほど喜びます。

ここで物語が終わっても、話としては成り立ちます。

子狐は無事に帰ってきました。
手袋も買えました。
冷たかった手は、もう守られています。

けれど、『手袋を買いに』は、そこで終わりません。

二匹は、森のほうへ帰っていきます。
月が出ています。
雪の上には、二匹の足あとが続いています。

子狐の手には、買ってもらった手袋があります。

子狐は、母狐に言います。

「母ちゃん、人間って、ちっともこわくないや。」

そして、まちがえて本当の手を出してしまったこと。
それでも帽子屋が手袋を売ってくれたこと。
その二つを話します。

子狐は、窓の下で聞いた声のことは話しません。

人間の子供が、森の子狐を思っていたこと。
人間の母が、自分の子供と森の子狐を同じ眠りのそばに置いたこと。

そのことは、母狐には話しません。

子狐が母に伝えたのは、帽子屋のことだけです。

母狐は、思わず「まあ!」と言います。
そして、しばらく何も言えなくなります。

やがて、母狐は小さくつぶやきます。私はそこに、まだ町の灯りを遠く感じている母狐の姿を思い浮かべます。

「本当に、人間はいいものかしら。本当に、人間はいいものかしら。」

母狐は、同じ言葉を二度くり返します。

この二度が、物語の最後に残ります。

一度だけなら、ふとした思いつきのようにも読めます。
人間はいいものなのかな、と少し考えた。
それだけで通り過ぎられたかもしれません。

けれど、母狐は二度つぶやきます。

一度言っても、答えが出ません。
もう一度言っても、やはり答えは出ません。

「人間はいいものだ」とは言い切れません。
かといって、「いいものではない」とも言い切れません。

だから、「いいものかしら」と問いの形で残ります。
そして、その問いが閉じないまま、物語も閉じていきます。

子狐は、確信を持って帰ってきました。

人間は怖くなかった、と思っています。

その確信は、軽いものではありません。

帽子屋は、子狐を捕まえませんでした。
手袋を売ってくれました。
窓の下では、人間の母子のやさしい声も聞きました。

子狐は、人間は怖いだけの存在ではないことを、たしかに見ました。

けれど、母狐の迷いもまた、軽いものではありません。

母狐には、以前、人間に追いかけられた記憶があります。

その逃走を思うと、私は大きな声や、近づいてくる足音を想像します。
原作で語られるのは、友達の狐が家鴨を盗もうとして、人間に追われ、命からがら逃げた経験です。
母狐の中には、捕まりそうになりながら、やっと逃げた恐怖が残っています。

その恐怖は、子狐が一晩で見つけてきた明るさだけでは消えません。

「人間は怖い」も、本当でした。
「人間は怖くない」も、本当でした。

どちらか一つだけを選べば、もう一方の本当を消してしまいます。

だから母狐は、答えを出せません。

私は、この終わり方に心が惹かれます。

母狐は、子狐の言葉を否定しません。
自分の過去も捨てません。

その二つを胸の中に置いたまま、月の下を歩いていきます。

雪の上に、二匹の足あとが続いています。

一匹は、町の灯りを見て帰ってきました。
もう一匹は、その灯りをまだ遠くから見ています。

三つを、抱えたまま

帽子屋の場面に出てくる人間は、決まりの中で子狐を扱う人間でした。
お金が本物なら、相手が狐でも手袋を渡す人間です。

窓の下に出てくる人間は、知らない相手を思いやる人間でした。
見たこともない森の子狐を、自分の子供の眠りのそばに置く人間です。

そして、母狐のつぶやきに出てくる人間は、一つの答えにできない存在でした。

怖くもあり、怖くなくもあります。
冷たくもあり、温かくもあります。
遠くもあり、近くもあります。

この三つは、きれいにはまとまりません。

けれど、きれいにまとまらないからこそ、『手袋を買いに』は読み終わったあとも残るのだと思います。

童話を読むとき、私たちはつい、教訓を探します。

この話は何を教えているのでしょうか。
何が正しいのでしょうか。
どこに答えがあるのでしょうか。

けれど、この物語は、最後まで答えを渡してくれません。

子狐は、町の灯りが少し近くなった夜を生きました。
母狐は、その灯りをまだ遠くから見つめる夜を生きました。

どちらが正しいとは、書かれていません。

一晩で町の見え方が変わる子狐がいます。
長く生きてきたからこそ、簡単には信じきれない母狐がいます。

その二匹が、雪の上を並んで歩いています。

町で買い物をするとき、ふと帽子屋の戸のすきまを思い出します。
見えない誰かのことを考えるとき、窓の下に立つ子狐を思い出します。
何かを「いいもの」と言い切れないとき、母狐の小さな声が戻ってきます。

「本当に、人間はいいものかしら。」

怖かった出来事と、あたたかかった出来事を、同じ胸にしまっておけるのでしょうか。

『手袋を買いに』は、その答えを急ぎません。

子狐の手は、もう冷たくありません。

けれど、母狐の問いは、まだ雪の夜に残っています。

Kazu

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